「LGBTは気持ち悪い」記事から見える【元】マジョリティが認めたくない現実

1.多様性を認めない多様性、はなぜ認められないのか
2.ポリコレ棒や正義の人が好きじゃない、言論弾圧だ
3.上記意見1-2を聞くと腹が立つ

そんな方々向け。
要するに、1-2の人は今や「マイノリティ」として苦しんでいるのだ。

はじめに背景説明

withnewsの記事が話題になっている。いま、LGBTを理解することは当然の前提であって、それに対して反対な意見を出すことが許されない雰囲気があることに息苦しさを覚えるという人へのインタビューだ。視点としてはとても重要なもので、色々批判はあるようだけれど。こういう声を(肯定したり否定することなく)社会に発信することは個人的には意義があると思う。

LGBTが気持ち悪い人の本音 「ポリコレ棒で葬られるの怖い」

 

出典: PIXTA

 セクシュアルマイノリティの当事者が、メディアに出て苦悩を語ることが増えました。でも、逆はあまり聞きません。つまり「LGBTが理解できない」という人の心の中です。「ただの差別主義者」なのでしょうか。ある男性に話を聞いてみました。(朝日新聞デジタル編集部記者・原田朱美)

その上で、今回は僕のオピニオンを記事にしておこう。前提として僕は個人の自由や多様性を尊重する立場であって、LGBTなど個人の属性に対して差別的な社会は嫌だなあと思っている。女性の社会進出などにも共感的だし、いわゆる「ネトウヨ」的な価値観は好きじゃない。

なので「LGBTは気持ち悪い」「女は学校なんか行かずに料理や掃除をしろ」という意見を聞くとムカムカしてくるのだけれど、今回の記事に触れて改めてこういう声ってリアルではほとんど聞かないことに気づいた。twitterのような匿名SNSでは悲鳴のようにこういう主張をする人たちがたくさんいるのに。

彼らの息苦しさや、「受け入れなくてはならないと頭ではわかっている」「自分の意見を表に出したら社会的に葬られる」といった感覚を理解しようと試みた時に、それがまさに「これまでマイノリティの人間が味わってきた感覚」なのではないかと思い至ったのだった。

マジョリティとは何か

今回はLGBTの話が元だけれど、大きくマイノリティという括りで一旦物事を整理してみたい。例えば障害を持っている人、女性、日本にいる外国人などが一般的にマイノリティと呼ばれることが多い。裏を返せば多様性という言葉によってこれまでよりも尊重されるべきだ(あるいは対等な共存?)と呼ばれる集団だ、とここでは暫定的に定義しよう。

では、マジョリティとはなんだろうか。元々の意味でいうなら多数派、マイノリティは少数派という意味である。しかし、女性がマイノリティとして認識されるなら、単に数の上での話ではないことはすぐにわかる。大雑把に人間を男性と女性に分けるのならば、人類の半分は女性であって決して少数派ではないからだ(市民という概念も元々「健康」「裕福」「一定の年齢」の男性に留められたことを忘れてはならない)。

つまり、マジョリティとマイノリティという概念は、特に政治的な視点で語るときには、単なる数について話しているわけではないことは即座に理解出来るはずだ。では、何を持ってそれを分けているのか。それは権力、あるいはパワーを持っているかどうかである。

社会における権力、あるいはパワー

例えばシンガポールでは、数の上では少数派でありながら政治権力を握る中国系の人たちをマジョリティと呼ぶ。様々な社会的場面において自分たちにとって都合の良い方向性に持っていくことが可能だからだ。

マジョリティは「何を論点にするか」を決定する力がある。そしてその論点における「主流の意見(裏を返せばイロモノの意見、軽蔑されるべき意見)」を決定する力を持っている。というか、そのような決定力を持っていることを「権力がある」と言い、そういう集団をマジョリティと呼ぼう。

そのように考えれば、マジョリティとマイノリティの関係はどんどんクリアになっていく。例えば「女性の社会進出を認めるかどうか」を考えるとき、その認めるという動詞を用いているのは誰だろう? 「LGBTでいることを許す社会にしよう」と考えるとき、許す主体は誰だろう? その主体がマジョリティである。許したり認めたりすることは、権力を持った側がすることなのだ。

そういう議題を議題として設定するのは誰か? 議題を決めている人たちが、それを「他のことに比べて重要でなく、瑣末な議題だから後回し」とすることが出来るのは誰か? それがマジョリティである。

同性愛者は軍で働くことが許されるか? という論点が既に異性愛者がマジョリティの社会であることを端的に示している。そしてそれに「ホモと働くのは無理だろ(笑)」など、特定の意見を軽蔑したり馬鹿にしたりジョークにすることが出来るのもまた権力を持ったマジョリティのなせる技である。

裏を返せば、このような論点を設定することが出来なかったり、自分の意見を述べたらバッシングされる恐れを持ったり、そのために自分の意見を隠す必要を感じたり、自分の意見を誰にも理解してもらえないと感じたり、自分の主張が傍流であって主流のものにならないため社会で実効されない人たちがマイノリティなのである。

「元」マジョリティになる人達

おわかりかと思うが、当然このマジョリティとかマイノリティというのは変動する。また、マジョリティの中にも更にマジョリティとマイノリティに別れるし、それはマイノリティにおいても同様である。例えば障害を持っている人の中でも、子どもの場合は様々な制度があるのに対して、成人に対するそれは乏しいことがある。そもそも社会における話題に登るのは、断然前者のほうが多い。パワーには勾配があるのである。

つい最近までマジョリティだったのに、今となってはマイノリティであるということは当然ありえるのだ。翻って、今回話題になっていたLGBT嫌いを称する男性はまさにこれに当る。昔はLGBTをネタにすることが当然許されていたのに、それはいつのまにかダメになってしまった。それに対して違和感を持ったりそれを表現することも、社会的な評価が下がるから言えなくなってしまった。息苦しさを覚える。そう彼は訴える。

 「差別意識で、いじめてやろうと思って発言したら、たたかれるのは当然。でも、異性愛が普通だと教わって育ってしまったから、全く悪意のない、うっかり吐いた言葉が『差別だ』と炎上することがある」

「じゃあもう怖いから、何も関わらない方がいいとなってしまう。(中略)でも、それじゃあ本当の解決にならないですよね?」

この後者の発言に、典型的な「マジョリティ意識」が見えるのである。マイノリティによる主張は放置することが可能であって、対話を「断る」ことが出来ると考えているのだ。解決するには自分たちの「自発的な協力」が不可欠だと考えているのだ。そうではない。

権力、パワーとは国際政治学では以下のように定義づけられる。それは「自分が望ましいことを相手にさせる力」「自分が望ましくないことを相手にさせない力」である。権力はまさにこのような存在であって、自発的でないものを強制的に動かすことが出来るものとして設定される。

彼は既に「自分の素直な感情を述べたら社会的に悪い評価を受ける」状況にいる。だから息苦しい。「LGBTを受け入れるかどうか」ではなく「(受け入れるのは前提として)どのようにみんなで活躍するか」が論点になってしまっていることに違和感を覚えている(ここに彼の自発性は無い)。でもその違和感を述べることすら許されないと感じている。これがまさに権力によって抑圧された状態である。典型的なマイノリティの息苦しさを表わしている。

多様性多様性って、なんだか最近鬱陶しいよね。そう考える人達は最早「元」マジョリティなのだ。自分の考え方が「理解不能」「変わっている」「関わりたくない」「馬鹿にしていい」「頭が悪い」「常識を知らない」「恥ずかしくないのか」とされる、マイノリティなのだ。そしてもちろん、これらの言葉はすべて自分がマジョリティだった頃にたっぷりとマイノリティに吐きかけた言葉達なのだ。

ポリコレ棒ではなく、マジョリティ棒

これもとても大切なことなので言っておこう。ポリコレ棒なるものは存在しない。あるのはマジョリティ棒だけである。Political Correct(政治的な正しさ)とはMjority Correct(政治的な権力によって決定する正しさ)にほかならないからだ。

であるならばマジョリティ棒ははるか昔から存在したはずである。皆さんはこれまでいくらでもマジョリティ棒を見てきたはずだし、時には自分が振るっていたこともあれば、振るわれてきたこともあるだろう。いくつか紹介する。

「女は勉強なんかするな。家のことをして子どもを生み育てろ」

「ゲイは気持ち悪い。殺しはしないがせめて恥ずかしそうに端っこで黙って生きてろ」

「触られる内が花。男が女風呂を覗いてしまうのは健全な成長の証で、良いことじゃないか」

「障害年金や生活保護を受けているやつはおれたちの税金で養ってもらってる自覚を持て」

これらはすべて、マイノリティに対して何度も何度も何度も何度も振り下ろされてきたマジョリティ棒である。権力を前提としたその行動や主張や存在を馬鹿げているもの、愚かなもの、許されないものとして否定し傷つけ、社会的評価を下げ、社会的に多くの人を葬ってきた言葉たちである。

ポリコレ棒が言論弾圧的であるという人たちは、これまで自分が無意識に振り回してきたマジョリティ棒に果たして自覚的であろうか? 自分がマイノリティ側であることに慣れておらず無自覚であるため、マジョリティ棒で殴られると強烈な被害意識を持つことは当然考えられる。大意として「マイノリティのくせに生意気である」と元マジョリティの人が言っていることは多い。

「元」マイノリティの持つ暴力性

当然これについても触れておこう。「これまで抑圧され続けてきた【元】マイノリティ」の持つ無自覚の暴力性についてである。正直なところ、これは必然である。ポリコレ棒なるものが存在するとして、それによって傷つく人がいるのも当然であろう。なぜならば、それは新たなマジョリティ棒にほかならないからだ。必ず抑圧される人間、属性、言動がある。それがマジョリティということの本質だからだ。

ただ「許される被害」と「許されない被害」を決める権力だけが存在しているのである。いま、多様性を認めない人間が受ける被害を「被害として認めるかどうか」を誰が決めているだろうか。少なくとも、表立って同性愛や障害を持った人に対して差別的な言動を行えば社会的評価が下がることは間違いない。

しかしそれによって社会的評価が下がってしまうことに異議を唱えることによってもまた、社会的評価が下がることも間違いない。であれば、これは最早権力によって抑圧された状態である。しかし、マジョリティにとってはその状態が最も好ましい。それはマジョリティの特権なのだ。自分たちの価値観や主張を否定する価値観や主張を馬鹿にしたり、否定したり、取るに足らないことのようにすることが可能なのがマジョリティの特権だからだ。

とはいえ、これまで叩かれてきたからといっていくら叩いても良い、とばかりに過激に攻撃することがこれまでの「権力による抑圧に反対!」という主張に反することは紛れもない事実である。元マジョリティからすれば、都合のよいときだけそういうことを言いやがって! と感じるかもしれない。でも感じたところで彼らのパワーはいささかも減衰しないので、その主張にはあまり意味がない。

これは差別を受け続けてきた黒人が、いまアメリカで最も差別意識が強いとされることに似ている。人種の平等を! と訴えていた彼らは、メキシコ系やアジア系に対する根強い差別を持っている。求めていたのは人種の平等ではなくそれはあくまで主張を強化するためのツールであって、本当は自分たちがマジョリティになることが目的だったわけだ。そしてそれを悪だと否定出来る人などいるだろうか?

多様性に含まれない多様性について

さて、これを最後のパートとしてしめくくりたい。よく「同性婚がokならば、なぜ近親婚や重婚は認められないのか」「多様性が認められるなら幼女性愛だって多様性ではないか」「多様性を認めないという立場を認めない多様性なんてあるのか」といった議論がある。

これは、マジョリティとマイノリティという立場で考えれば簡単にわかる。つまり「多様性」という言葉の意味を決定することの出来る人たちがマジョリティなのである。マジョリティは自分の意見を通すことができ、マイノリティはそれが出来ない。

上述の主張は「論理が正しくないから」でもなければ「数が少ないから」でもなく、マイノリティだから認められないのだ。実際のところ多様性という概念を信奉するのであれば、これらの主張を否定することは理論上かなりの議論を必要とするだろう。しかし、実際はそうでない。

なぜならば「議論しない」ことを選べるのがマジョリティの特権だからである。現状が既に自分にとってokなら議論することなど何の意味もない。「議論してあげる」ことはあっても、別にそれを打ち切っても問題ない。そして、問題があるのが逆に言うとマイノリティである。現状だと息苦しいからだ。

多様性もまた権力によって初めて肯定されるものなのだ。正しいから認められるのではない、理屈上無矛盾だから、無誤謬だから認められるのではない。いまのLGBTやフェミニズムの方々は、まさに戦いながらこれらの権力を高めてきたのだ。黒人が白人専用のレストランに入ってリンチを受け、水をぶっかけられながら戦ってきたことと同様である。

同性婚に反対する人が「じゃあ近親婚も認めなくてはならないのでは?」と揶揄することに意味がないのは、近親婚のために死に物狂いで戦う気がなく、単に同性婚を認めたくないだけだからだ。極めて無力な主張である。

どれだけの女性運動家が気が狂っていると人格ごと否定されてきたか。どれだけの女性同性愛者が「矯正してやる」とレイプされてきたか、ご存知だろうか。彼らは声を上げるごとに殴られ、言葉を奪われ、辱められてきたのである。その歴史は(第一波フェミニズムから数えて)200年以上の血まみれの歴史だ。

自分たちの多様性を認めさせるためには、つまりマジョリティになるには単に理屈が正しいだけで足りない。むしろ正しい理屈など存在しない。どれだけ多くの人に自分たちの息苦しさ、苦しさに共感してもらいながら仲間を増やして、いつかその意見を認めたくない人にも「受け入れざるを得ないようにするか」の戦いなのだ。

決して、時代が「進歩」しているわけではない。障害を持っている人や女性やLGBTの人の権利がこれから拡大し続けるとはまったく限らない。例えばこれから遺伝に関わる科学技術が発達すれば、障害を持った子どもは妊娠段階ですべて発覚し、生まれてくることすら無くなるかもしれない。そういう遺伝子を持った人は事前に検査を受けた上で結婚出来なくなったり保険に入れなくなるかもしれない。治療をすれば治るようになるかもしれない。

その善悪は、その善悪を反映した具体的な政策や法律は誰が決めるだろうか? それはその時代のマジョリティである。これらの判断の是非は結局どこまでいってもリアルポリティクス、政治的パワーの奪い合いの結果でしかないのだから。

P.S.

もちろん、マイノリティやマジョリティといった区分は時代や地域や共同体ごとに異なるものであるし、はっきりと区別されるものではなく、連続的だったり、押したり引いたりされるものだ。いま、僕が所属する社会的集団においてLGBTを否定するような言動はかなりのタブーだが、そんなことは全く無い社会的集団もあるだろう。

相撲の土俵に女性が乗るなんて絶対に許してはならん! という人もいるし、実際宝塚市長は乗ることができなかった。男性市長も一緒に土俵の下で話す、といった形での平等すら叶わないようだ。なので、今回【元】マジョリティと称したような価値観が決して完全にマイノリティになったわけではないことも明らかである。

また、僕は倫理学を研究しており規範論的な思考をしている。規範論とは「現実はどうなっているか」ではなく「現実はどうあるべきか」を考えることであり倫理学は典型的なそれである。しかし今回は敢えて分析的な、経験論的な考え方を採用して記事にした。

どちらかが「正しい」と言ってしまっては、【元】マイノリティの無自覚の暴力性を肯定してしまうことになるだろうし、逆に【元】マジョリティの意見を間違った意見だと伝えることになるだろうと思ったからだ。

個人的には僕は多様性を尊重する立場であるが、しかしそれは無謬の正しさ、理屈上の正しさ、学説としての正しさとは無関係だ(もちろん学問的な議論をするときにはそれは極めて重要だ)。単に僕はそういう社会の方が好きだし生きやすいのだ。

僕と違った考え方の人も、恐らく異なる居心地の良さを求めているのだろう。そして、どちらの居心地の良さにも必ず踏みつけにされる価値観がある。そこでは権力によって抑圧され生きづらいと感じる人達がいるはずだ。そんな人達が取りうる行動は

1.その現状を変えるために頑張る
2.現状を受け入れ不満を仲間と愚痴る

がある。これまでマイノリティに対して「ノイジーマイノリティ」だとか、「多様性多様性とうるさい」「恥を知れ」「バカげたことを言うな」と思っていた人たちはどんな風に行動するだろうか。マジョリティから否定されながら頑張らざるを得ないのは自分たちの歴史を振り返れば明らかである。

連載「生きづらさとジェンダー論を考える」
vol.1フェミニズムの歴史を概観する:第一波フェミニズムとはなんだったのか
vol.2フェミニズムの歴史を概観する:第二波フェミニズムとはなんだったのか
vol.3ジェンダーを巡る:近代家族という発明品と伝統の構築
vol.4ロマンティックラブ・イデオロギーと母性神話:恋愛、結婚、子育てを巡る現代の価値観
vol.5結婚への圧力が消えた社会の未婚化→少子化とジェンダー
vol.6女性の専業主婦願望の難しさ、男性が共働きを求める理由
vol.7「LGBTは気持ち悪い」記事から見える【元】マジョリティが認めたくない現実
vol.8パートタイムと非正規雇用:女性の労働問題からすべての人の労働問題へ
vol.9海外で上映が一部禁止!? 男性の権利についての映画『The Red Pill』、日本上映の立役者にインタビュー
vol.10女性の労働、ガラスの天井と能力主義の嘘
vol.11フェミニストが男性の権利を直視するドキュメンタリー映画「The Red Pill」を見て

 

One thought on “「LGBTは気持ち悪い」記事から見える【元】マジョリティが認めたくない現実

  • 2018年6月16日 at 6:36 AM
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    長くてややこしいが興味深い内容だった。ただ抽象的で証明が無く理屈の上の話なので腑には落ちない。

    特に
    『とはいえ、これまで叩かれてきたからといっていくら叩いても良い、とばかりに過激に攻撃することがこれまでの「権力による抑圧に反対!」という主張に反することは紛れもない事実である。元マジョリティからすれば、都合のよいときだけそういうことを言いやがって! と感じるかもしれない。でも感じたところで彼らのパワーはいささかも減衰しないので、その主張にはあまり意味がない。』
    のくだりは「そういうこと」や「彼ら」がどれを誰を指すのかややこしい。

    元マジョリティ現マイノリティが「現マジョリティ元マイノリティは今は我々を抑圧しているのに、マイノリティだった頃(都合のよいとき)には抑圧反対(そういうこと)を唱えていた」と不満を感じるも、その不満を以てして彼ら現マジョリティのパワーを減衰させられる訳ではないから意味がない、
    という意味なのだろうか。

    「元マジョリティからすれば」の部分を「元マイノリティからすれば」の書き間違えなのだろうと捉えても、元マイノリティ現マジョリティが「我々がマジョリティになったとき(都合のよいとき)だけ、あなた達の今の態度は抑圧反対という嘗ての主張に反するという説教(そういうこと)言いやがって」と筆者の指摘に不満を感じるが、筆者に指摘された所で彼ら現マジョリティの権力が削がれる訳ではないので一々不満を抱くだけの甲斐は無い、という意味として読めてしまう。

    >話題に登る
    ここは「上る」が適当な気がする。

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